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archive~1「走り続ける熱き男たち」

89年に全日本シーンに登場。95年に世界GPにも赴き、
翌年に日本に戻ってからは鈴鹿8耐で活躍。
デイトナBOTなどにも参戦し、最近は全日本では異色のドゥカティで
JSBに挑戦し続けているのが須貝義行だ。
 須貝はメーカー契約をしていたり、あるいは他にしっかりとした稼ぎ口を持っている訳ではない。
かと言って、全日本ライダーがレース賞金で生活できる訳もない。
ライディングスクールのインストラクターや、車の販売など、
やれることは何でもやっている。
レース活動もプライベート参戦。マネージャーと二人でスポンサー活動をし、スタッフを集めてチーム運営も行う。
 今年44歳。須貝は「レースで生活していきたい」「GPライダーになって豪華な人生を送りたい」といったことは、
一切考えていない。
それならなぜ、レースを続けているのか。


 須貝がレースを始めたのは、高校を卒業してからだった。
それまではサッカー少年。オートバイに興味を持ったのは中学生のころ。
当時の殆どの男の子は、年頃になると一様にバイクに興味を示したが、
須貝のバイクへの興味も、その域を超えてはいなかった。
 「だいたい、それくらいの年になると同級生がバイク雑誌を学校に持ってくるようになるじゃないですか。
それをみんなで見て、かっこいいだの何だのって話をするようになる」
 しかし須貝は夢中になっていたはずのサッカーに、疑問を感じるようになっていた。
「サッカーみたいなスポーツは不公平だから。
よくみんなモータースポーツはマシン差があるとか、タイヤがどうとかで不公平だって言うけど、俺に言わせればまるで逆。
サッカーみたいな競技は体が勝敗を決める。高校くらいになると、がっしりした体格の選手には勝てなくなるんですよ。
かと言って俺は懸命に食べても、体格良くはなれなかった。足が速ければ強くなれるけど、それも頑張っても限度があった。生まれ持ったDNAとか、育った環境とかでついた差は、いくら努力をしてもどうにもならない。
それこそが不公平でしょう。いくら考えても勝てないし。」
 サッカーを続けていても、越えられないものがあると悟った。須貝の目はロードレースに向いた。
 19歳でレースデビューを飾り、SUGO選手権で優勝も経験。一気にレース熱に浮かされていく。
進学校に通っていた須貝は、周囲に流されて大学に進んだ。
アルバイトをしたり、親に借りたりしながらレース資金を調達し、のめり込んでいった。
地元のオートバイ屋、北雄モータースでツケでパーツやタイヤを買った。
マシンは中古のレーサーを買った。ツナギはサンプル品を安く手に入れた。
 翌年の1986年にはSUGO選手権のSP250チャンピオンに輝く。
「このころから世界で走りたいっていう気持ちが生まれた。あまりすごいやつっていうのがいなくて、
SUGOではほとんど抜かれた事がなかったから」
 筑波選手権にも遠征した。エントリー台数が640台、予選16組という全盛期。
さすがにSUGOでは最強の須貝も、予選落ちを経験した。

「予選落ちが嬉しかった。もっとすごいやつらと走ってみたいって思ったんです。」

 筑波選手権には須貝よりも速いライダーがたくさんいた。それならば世界にいけば、「もっとすごいやつがいるに違いない」と思った。
 87年にはSUGO選手権N250Rで全戦全勝のタイトルを獲得。さらに筑波選手権N250もチャンピオンに輝く。
大学も中退し、ますますレースにのめり込んだ。
 88年には自分でホンダRS250を購入。
それをきっかけにバムレーシングに所属。89年に国際A級に昇格した。
注目ライダーだった。しかし須貝はファクトリーに所属する事もなかった。
ただただ、自分のタイムを削っていくのが楽しかった。コースを攻略していくのがおもしろかった。すごいライダーとの競り合いに胸が躍った。
92年にはスポンサーを取ってきてくれる人がいて、自分のチームを立ち上げた。


 須貝が夢見ていた世界に挑戦できたのは、29歳の時だった。
クラスはGP125。
「別に参戦クラスにこだわっていなかったから、話をもらってそのまま契約サインをした。」
 ほぼ10年前に行きたいと思い始めたGPに、実際に行った。
 
 「世界はすごかった」

その一言に尽きた。当時は日本人ライダーが多数、世界GP125クラスで活躍していた。ちなみに、須貝が参戦した95年に世界タイトルを取ったのは青木治親だ。
「本当に世界のレベルはすごかった。抜かれた時のスピード差は、何とも言えない。甘さがないんですね。」
 GP250クラスで原田哲也とマックス・ビアッジの争いを見た時は、震えを覚えた。
「2台がずっとテールtoノーズで争っていた。3位以下を引き離していたんだけど、その3位争いをしているのも、名だたるトップライダーたち。それを置き去りにしていること自体がすごいし、さらにその2台の争いがすごかった。」
原田は勝てなかった。それを見た須貝は悟った。
「世界は物や体制が整っていないと勝てない場所なんだ。」
 もちろん、精一杯走った。良い経験にもなった。しかし自分の力だけではどうにもならない物があることを知った。
 後に青木治親が引退を発表した。「レースを続けたいし未練はあるけれど、体制が整わないし、これ以上はできない。」という言葉を聞いた時、世界チャンピオンでも世界で走り続けるのは難しいことを知った。
 夢見ていたGPで須貝はもう一つ、学んだことがあった。
「走る場所は必ずしも世界である必要はない。少しでも自分自身が成長できる場所なら、世界であろうと、日本であろうと、
どちらでもいいことなんだ」
 もちろん、須貝もライダー。優勝もしたい。いいリザルトが欲しい。
それができれば、もっと色々な物が得られるだろう。


「もっとすごいことをやりたい。もっと面白い事をやりたい。もっと上手になりたい。今よりもすごい人間になりたい。
1周前よりも成長していたい。前のコーナーよりも上手になっていたい。」


 須貝にとってレースは、人間が成長するためのもの。
「だから、もう世界にはこだわっていないんです。全日本にもすごいライダーはたくさんいる。伊藤真一、中須賀克行。
他にもたくさんすごいライダーがいる。」
 19歳でレースを始めた時に、『すごいところで、すごいやつらと走りたい』と思った須貝少年は、それから四半世紀が過ぎても、やっぱり『すごいところで、すごいやつらと走りたい』と思い続けている。

 ドゥカティのマシンで全日本に参戦するようになったのは03年から。常に成長したい須貝が、そのために選んだ新たな挑戦の形だった。
様々な苦労はあった。それでも工夫を凝らすのが楽しかった。さらに、ドゥカティのマシンは、日本メーカーのマシンにはないものがあった。
 「色々と煮詰めながら成り立っているから、バイクと溶け込んでいるような一体感があるんですよね。
日本車は4年でフルモデルチェンジしてしまう。その分、最善の物を集めて、良いものが出来上がっている。
でも日本車に乗るのは、つるしのツナギに体を合わせるくらいに、多少でもどこか我慢をしなければならない部分が出てくるんですよ。
ドゥカティは、そういうのが柔らかくて、一体感が味わえる。」

 何歳までレースを続けるのか、聞かれる事がある。須貝は一切、考えていない。
「19歳のころから、先の事を考えたら人生がつまらなくなるなって思い始めた。やりたいことをやらないと、結局は何年かしたら、やっぱりやりたくなるに違いないから。
もし、後で苦労するようなことになったとしても、クヨクヨするくらいなら、やりたいことをやろうって思った。」
 今でもそう思っている。だからこそ、いくつまでレースをやるとか、今後の生活をどうするとかを考えてはいないのだ。

「どうやってモチベーションを保っているの?って聞かれることがあるけど、
逆にモチベーションを保つ必要なんてないんですよ。」
 須貝は、やりたいことをやっているだけ。

 「レースはおもしろいから」

おもしろいことをやるのに、モチベーションを保たなければならない状況に追い込まれることはない。
何歳まで続けようかを考える必要もない。
 「続けるからには、良い結果を残したいですよ。とにかく価値のある人間にならなきゃ。」
 ロードレースを続けてきた須貝には、色々言いたいこともある。若手の育て方一つにしても、今のやり方は間違っていると思う。
「今のやり方って、腹が減っている奴にパンをあげてるだけだと思うんですよ。それじゃ若手は育っていかないし、
すぐに離れてしまう。パンを差し出すのではなく、まずはパンの作り方を教えるべきだと思うんです。」
 全日本の開催方法にも言いたい事がある。
「各サーキットで最低2回ずつは開催しないと、データを取っても使えないし、きちんとしたデータを取る事が出来ない。
2か所くらいは、2回開催になるといいんじゃないかなって思う。」
 言いたい事はあるが、今は聞いてもらえなくても仕方ないと思う。
「やっぱり速いライダーになれば、意見も聞いてもらえるでしょ。だからイトシンにも勝ちたいんですよ。」

 須貝の『おもしろいことへの挑戦』は、これからも続く。


ライディングスポーツ 2010年6月号より